その三〇〇

 

 






 







 






















 























 

葉脈は 雨にぬれてる 地図を残して

幹をゆらすと、しゃらりと音をたてながら
土の上にこぼれる落ち葉。
いつのまにか緑色だった葉っぱが
枯葉色になっていて、つながっていた場所から
ふいに離れてゆく。

落ち葉になっても落ち葉としてまだ生きていて
誰かが音を踏むと音を立てるところが
いじましいなって思ったりする。

まぶしいほどの新緑や深い緑の季節はわたしに
とって遠い遠いものに思える。
みどりの葉が、視線の中でまぶしく反射する。
それよりも生々しい生を脱ぎ捨てしまった落葉の
色や形は、瞳の中にその色が映っても
なじんでしまえるような気がする。

バス停にふきだまっているもみじの赤茶けた葉を
みていてふいに思い出したことばがあった。
ずっと忘れてはいなかったけれど、誰の言葉なのか
っていうところを忘れていた。

それは決まって落ち葉をみかけると浮かんでくる。
<枯葉ははじめっから枯葉だったわけじゃなくて
はじめは緑色だったから、よくみるとうっすらと
枯葉の中に緑色がみえるでしょ>

細密画を手がけるプチファーブルと呼ばれている画家、
熊田千佳慕さんの言葉だった。
熊田さんの言葉をはじめて聞いた時なんだかとても
その視線の注ぎ方に驚いた事がある。
とくべつな眼差し。
顕微鏡の中をのぞいた世界を裸眼で表現できることに
深く興味を抱いた。

<だから、はじめから枯葉の色で描かないで
最初は緑でえがいて、色を重ねて重ねて落ち葉の色に
したんですよ。枯葉は自分ですから>

ばきゅんって熊田さんに指ぴすとるでうちのめされた
感じがした。
それを聞いてから見る落ち葉にはすべて見透かされている
ような気がしてならなかった。

人でもそういうものかもしれないなって思う。
いまわたしの目の前にあらわれている時間を重ねた
からだや声のすきまにふっとちっちゃかった頃、
ランドセルを背負っている姿が見えるおとなの人がいる。
ちゃんと誰かに叱られたり泣いたりしていたころが
あったんだなって、子供のころがよぎるときと
熊田さんの枯れ葉論はおなじだなって思う。

いつもお説教している人のどこかしらに、緑色が
隠れているものなんだなって思うと、すこしこっちからの
アングルがずれてみえて面白いし、どことなくうっかり
いとおしくなる。

一枚の紙の中に、かつていきいきとしていた葉脈を
長い時間を経てうつしとられて。
永遠のいのちを得て生き続けてゆく。
その時間の重なりは、熊田千佳慕さんと選ばれた葉っぱの
かけがえのない蜜月のように思えてきて、にじむ想いに
 駆られた。

       
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