その三三〇

 

 




 







 




















 

あるような でもないような しっぽに触れて

はじめてお目にかかった方と、握手をした。
2月にしては珍しいくらいの冬の晴れ間の空の下で。
その方は、ありがとうございますの言葉とともに
右手をさしだして。
わたしは、握手をもとめられることなど、皆無に
ひとしかったので、とっさにぽかんとしてしまった。
ちいさなお子様を育てていらっしゃる彼女の手のひらは
しんじられないぐらい、あたたかくてやわらかだった。

ふと、彼女のそんな手に育てられる子どもたちは
幸せだなって思った。
わたしにとっても一瞬のことだったけれど、つかのま
子ども達を抱きしめたり、服を着替えさせたり、おやすみのときに
おふとんからはみでたゆびを、なかにしまったり。
そんな母としての彼女の仕草が浮かんでしまう。
彼ら達はきっとそのときの母の手のやわらかさを、
忘れていた頃に、思い出すのかもしれないなって思った。

もうすいぶん昔のことだけれど、とある男の人と握手を
したことをふいに思い出した。
たくさんの人達に囲まれて楽しい宴を終える頃、
さしだされた右手。

わたしは夏の暑さもあったせいか、握手したとたんに
その力強さに、気圧されそうになって、足下が一瞬ふらついた。
その手の平はぶあつくて、とても熱くて。
しっかり握られたあとに、そのゆびなのかてのひら全体なのか
なにかベクトルめいたものが、向かって来て。
びりびりと手首から肘、二の腕、肩、首筋、そして
あたまのてっぺんに電気のようなものが走った。
そんな経験ははじめてだったけれど、これがこのひとの
もうひとつの大切な役割、父性としてたずさえている
エネルギーなのかもしれないなって思った。

古い雑誌をめくっていると、トーベ・ヤンソンの懐かしい
ムーミンの話が綴られていた。
懐かしいなってページをめくっていると、ほんのりと
哀しいようなエピソードに出会った。

<ムーミンパパは、赤ん坊のとき、「ムーミン捨て子ホーム」
の階段におきざりにされた(しかも新聞紙にくるまれて!>
<ホームではしっぽに不吉なしるしをつけられ、おじぎするときは、
しっぽを45度の角度でうえにぴんと立てねばならなかった>

そんなパパが、窮屈すぎるその場所から<短い足で必死に脱走し、
<自由と冒険>を愛するようになって、
ムーミンママと運ばれて来た大波の中で出会う。

ムーミン一家は、そのからだのフォルムに目を
奪われがちだったけれど。
よくよく思い出すといつもあるのにないような
あの尻尾に秘密がかくれていたんだなって。

パパが叫ぶ「ぼくのしっぽよ、おめでとう」がどうして
「バンザイ」なのか。
そのの意味がすこしだけわかったような気がした。

ふと思った。
なにげないムーミン達の尻尾のようなものが、
にんげんたちの家族の中にも潜んでいて、
それがそのいえどくどくのあじやちいさなルールや
かけがえのないふんいきを、かもしだして
いるのかもしれない。



       
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