その三五四

 

 

 






 








 























 

あとあしで ななつさがりの 雨蹴っている

 白地に赤の水玉模様。水玉模様の大きさが、少し虚をつかれるような、分をわきまえているような、白地との相性が面白くて、眺めていた。
 みずたまははずかしい。なつかしくてはずかしい、小学校の入学式で着ていた紺色にみずたまのワンピースをふいに思い出す。
 なつかしいことがはずかしいのではなくて、なつかしいと思っているこの気持ちがはずかしいのだと思いつつも、そんなてのひらサイズのノートを買った。

 買ったその日は、なんでここにいるの? って
よそよそしさがあって、なかなか白いページを埋められなかった。
 でも、はじめてペンを走らせてから、毎日ひらくようになって。
 そばに置いてあると、すっかりじぶんのものだというなじみかたをそれは放っていて、やっぱりしましまよりもみずたまがすきなのかもしれないと思う。

 ただのまるにみえるけれども、そこに身の丈を感じさせるなにかがあって。
 そこにひかれていたのかもしれないと、ステイショナリーコーナーではよくわからなかった、決め手が今頃見えてくる。
 みずたまであることも大切だったけれど、それよりもまして身の丈をわきまえているみずたまだったことに、こころがぐいぐいひっぱられていたのだと気づく。

 この間、この場所で書いた猫のとびらが頭を巡っている。
彼らがしっている身の丈のドアについて思っていたら、1月20日の新聞の切り抜きのオノ・ヨーコさんの言葉に出会う。

 <出入りする小さなドアをつくりなさい。/出入りするたびに、あなたは/かがんだり、縮んだりしなくて入らなければならない/これはあたなに/あなたがどのくらいのサイズなのか/出ること、入ることとは何か、を/気づかせてくれる。>

 そのノートに書き写された言葉を眼で追いながら、猫やみずたまの身の丈ではなくて。じぶんじしんにそのベクトルが向かっていることをつきつけられて、よくわからなくなる。
 単純だとおもったことがとたんに複雑にいりまじってみえてきて混乱するけれど。
 ひとつだけ、わたしはあなたじゃないのだなってことだけがありありと輪郭をもたげてくるのがわかる。
 どんなにすきであってもひかれていても、わたしはあなたじゃないし、あなたも誰かではないことを教えてくれることばだと思う。

 なんとなく、ひとり根をはって生きてゆく林立する木立にひとりひとりの人間をそっと重ねている映像が浮かぶ。
 それは、果てしなくて。
 どこまでも続いていて、ずっとここより遠くに立っているらしい1本の樹は、とても小さいのだけれど、風にしなるように立っているのがみえた。


       
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