その三五六

 

 

 





 






 























 

放課後が 続いたままの かつての校舎

 キーボードの上に指を置いて、横に横に立ち現れてくる文字をみていると、なんだか打っているそばから、その文字達はどんどん左から右へと流れて消えてしまうような感覚に陥る。

 それがいいのかどうなのかまだわからないけれど消えてゆく、からっぽ感にすくわれる事も時折あって。

<紙には天と地がある。地に向かっては重力が働く。その重力に沿ったり、耐えたりあるいは押し戻したりしながら字をつづっていく。そこには自ずと自制や自省が生じる>

 書家の石川九楊さんの言葉と新聞の中で出会った。
その文章を読んでいるとき、こんなにも横書きに慣れてしまったにもかかわらず、こぶしひとつぶんぐらいの爽快感を憶えた。

 そして昔ならっていた書道の時間を思い出したりしていた。筆と半紙のあのもどかしい関係が甦ってきて、半ば苦い思いに駆られる。
 墨をふくんだ筆が半紙の上で、どうにもままならなかったのは、そこに生まれた重力のせいだったのだと、今更ながら気づく。
 抗うなにかがあると、なにかを無防備に突破することがためらわれたり、あぐねたりするこころの動きがたちまち腕から指へそして筆へと伝わってきて、半紙の上で掻き乱されてしまう。

 わかりあえたとおもったせつな、それはまぼろしだったような。まぼろしだからいつまでもあこがれがあるような、なんだかもやもやしたものを抱えたままのような。

 石川さんにインタヴューしている記者が綴る。
<縦に書く場合、「歴史や社会と共にある自分」が意識される。横に書く場合「私」がせりだしてくる>

 読めば読むほど、虚をつかれる。
 遠い過去の国語の時間の作文ですら自分の立ち位置に関わらずにはいられない、装置がそこにあったことを今頃になって知らされた。

 いま、マイルス・デイヴィスのトランペットを聞きながら、そう云えば楽譜も横だったなって思う。
 音楽を聴いていると、耳の中をかすめたメロディは重なりあうように音を連ねながら、たちまちどこかへと消えてゆく。

 消えてゆくけれど、それはなくなってしまったわけじゃないところが、音の凄みかなって思う。
 ひとつの文章を読んでいて、こんなにも揺れている。
 しろかくろかきめられない感じが、年を重ねてとても増えた感じがする。若い頃のあの好き嫌い観のその輪郭が薄らいでいる。
 縦書きの重力とあらがうその葛藤の時間の撓みも魅力だし、またたくまに流れて行ってしまう横書きの風通しのよさもすきだなって思うこのごろ。

 たとえば横の人、縦のひと。
 石川九楊さんのことばを知って自分の頭の中に、横の引き出しと縦のひきだしがふたつ増えた。
 記憶のなかのいろんな人たちをそっと入れておく箱が、できたみたいで、すこしばかり愉快。


       
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