その三五八

 

 

 






 








 
























 

とけてゆく 雲のまにまに おとこの語尾が

 ひさかたの。みをつくし。ゆめゆめ。
むらさめの。夜もすがら。めぐりあひて。

 百人一首をつらつらと見ていると、いつまでも音が耳の中に残ることばに惹かれてしまう。
 誰かを思う気持ちにあふれているせいなのか、言霊のせいなのか声にしているうちに、半ば祈りのことばのように聞こえてしまうときがある。

 はじめての地名や知らない国の言語でもなんでも。
音が放っている空気感のようなものに誘われて、すこしそこに根拠のない好意を抱いてしまう。

<音は思いを運ぶ>ってことを玄侑宗仇さんが話しているのを聞いた事がある。
 マントラが、<あ>と<う>と<お>を中心にしてつくられたと解説されていた。

<あ>は、明るく大きな気持ちを広げてくれるらしく
<う>は、人間の思考を促して
<お>は眼にみえないものを信じる力を養う偉大な音。
 そんなふうに語っていた。

 ひとつのことばがここにあって。その裏側には意味がぺったりとはりついていて。がんじがらめになってしまっているとき。
<言葉に縛られすぎているんですよ。ことばがあると価値付けをしてしまうんでしょう>ととある住職の方は言う。

 たとえば風景についても同じようなことを記している文章と出会った時もどきっとしたことがあった。
 ひとつの風景に、意味を無意識のままに背負わせていることがあると。安心を求めるが故に意味というレッテルを貼っていると、ほんとうの風景の真意を見落としてしまうのだと、たしなめられた。

 もうすでに知ってしまったから。
 ことばがなくては生きてはいけないけれど。
 そのことばの意味がわたしたちのこころを自由から奪ってしまっているのかもしれない。

 音がここにあって。
その音は<響きによってあるべき場所へと整ってゆく>らしい。
 あるべき場所っていいなぁと思う。
 玄侑さんの言葉を聞いたせつな、なんとなくちいさな窓から風をたっぷり感じる広い空間へと導かれたような気がした。

<あ><う><お>。
 心地いい響きは、ありとあらゆるものの輪郭線もすっと消えて、水の中で絵の具がたゆたうようにまじりあうことなのかもしれないなって、いたづらに想う。


       
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