その三五九

 

 

 




 







 


























 

懺悔する 声にならない 声を聞いてる

 その眼差しのせいなのか、指のしぐさのせいなのかよくわからないけれど。
 一枚の絵の前で、視線がすれちがった気がしてもういちど踵を返してしまいたくなった。

 風のなかを桜の花びらがちらちらと舞う上野公園を久しぶりに訪れた。
 ずっと行きたかった「エル・グレコ展」。
 彼の最晩年に描かれたという肖像画<修道士オルテンシオ・フェリス・パラビシーノの肖像>にひどく惹かれる。

 かつて観た絵画の肖像画の中のひとみはいつもどこか遠くをみているようで、視線が交じり合うことはなかったのにこの作品は、彼と観ている者との目線が触れ合うように描かれていた。

 エル・グレコの描く指はいつも、ゆめのように細く長くてとても表情があって好きだなって想っていたので、すぐさまそこに視線が引っ張られる。

 左の指を聖書なのか書物のページのなかにはさんだまま、視線をこちらに預けている。
 つい今まで、書物に落ちていた視線を上げる。
 眼の前にいる誰かがなにかを話している声を聞き逃さないように注意深く佇みながら。
 視線はなにかを受け入れるときのやわらかく集中しているそんな表情をしていて、その手をとめて首をすこし傾けている。

 首の傾きがわずかながら左に寄っていて左の耳が包囲の襟元すれすれに覗いている。
 その絵の前に立っていると、目の前にいる私たちの声に耳を傾けているかのように見える。

 止まっているはずの一枚の絵の中につい今しがたまで彼と共に動いていた時間が内包されているようで、いまも彼はどこかで生きているような錯覚を憶える。

 フロアを歩いていると→の方向の順路をなんども逆流した。
 こころのなかの映像であったはずの、キリストの身体や聖母マリア、地獄や煉獄、天国が<見えるもの>として描かれている宗教画を見上げては、踵を返す。
 天へ天へとのぼりつめてゆくような引き延ばされた身体。
 絵をみているというよりは、やはり祈りの空間へ足を踏み入れたときのかすかな緊張感が漂っていて、それは<祈りへの憧れ>のような不思議な感覚だった。

 帰りの電車の中、ゆるやかに気だるくなってゆく頭と身体で、ぼんやり想っていた。
 絵をみている間ずっと、誰かがわたしの話を聞いていてくれたような気持ちでいたことにふいに気づく。

 告解をしたことはないけれど。イタリアの教会でカーテンのゆらめくその部屋から出て来た人をいちどみかけたことがある。
 太ったおばさんの爽快な微笑みの表情を思い出していた。

 <パラビシーノさん> 
 修道士が生身の人間であること、彼の姿をみている間にその距離感が縮まっていた気がして、その絵を離れてからも彼の耳を傾けている仕草と共にわたしはエル・グレコ展を楽しんだのかもしれないような、気がしてならなかった。


       
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