その三七〇

 

 

 





 







 






















 

トンネルの 闇に包まれ 祈りに揺れる

 お腹がすいたまま、電車に乗る。
ゆられている間、空腹のままでいようと思う。
 九月二十二日。
 久しぶり都内まで足を伸ばす。表参道のスパイラルまで
 西斎さんの「新・富嶽三十六景展」に訪れるために電車にゆられていた。

 好きなものを眺めにゆくときは、すこしぐらい空腹のほうが、フェアにこころに響いてくるって信じているところが昔からあって。
 お腹いっぱいだと、すてきなものを前にしたときの感動が薄れてしまったらもったいなってこの年になっても本気で思う。

 富士山が世界遺産登録されたこをと祝しての個展でかねてから、拝見したいと思っていたので、連休のまんなかをねらって、足を運んだ。

 ホールの右手の階段をいくつか上ると、西斎さんの作品の富士の姿が、窓から見え隠れする富士山のように眼の端に飛び込んでくる。

 赤富士の裾野から頂きに向かってまっしぐらに伸びているハイウェーを描いた「富士ハイウェー」。
 戦後の繁栄を象徴するようなその姿は、当たり前の風景になりすぎていたことに気づかされて、ふいに通り過ぎたくなるような立ち止まりたくなるような気分に駆られる。

 そこに綴られた<この道路はどこに向かっているのでしょうか>という忘れかけていた問いが、他の作品を見ている間もぐるぐると回り続ける。

 「ヴィトン富士」や「薬瓶富士」。
 そこに展開されている富士の世界は、かつて日本画で眼にしたことのある、富士ではなくて、たいせつな問いをわたしたち見るものに投げかけている。
 ユーモアの後ろ側にある苦さが、まっすぐこころに突き刺さってゆく。

 会場を後にしようと思った時に出会った作品、「まつ」。
 そこには五本の松が、いろいろな彩りと大きさで描かれていた。
 静謐さと潔さがあいまったその作品の前でわたしは離れがたい衝動を憶える。
「松」と「待つ」の掛詞をイメージして描いていることが、ひしひしと伝わってくる。
 ふいにそこに存在している五本の松は、ある日どこかで誰かを待っている見知らぬ人同士の五人のようにもみえてくるふしぎ。

 絵を前にすると感情がらせんに乱れるのがわかる。
 こういう時間を有意義っていうのかもしれないなってむかしならあまり振り返らなかった時間のことを思う。

 誰ももたないつり革が、ゆるやかにひとりでに電車のリズムに合わせて揺れていて。
 ふと、あの「まつ」の姿が残像のように重なってゆく。
 ただただ揺れている つり革なのに。

       
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