その三七一

 

 

 






 






 

























 

とまどうって 足がすくむこと おそるおそると

 ふと、表紙の上に三枚の黄色い付箋がくっついているのかと思って、その付箋を剥がそうとしてそれは写真の中に組み込まれたデザインだったってつるつるの表紙に触れた時に気づいた。
 うまく騙されたなって思って、ちいさなケーキ屋さんで向かいに座っている人とすこしだけ笑った。

 ここ数週間は、なぜだか感情について考えることが多かった。水が流れるより低くにある感情については馴染んでいるけれど、空気のようにたかいところを漂う輪郭のあやふやなすこし宙から浮いたところにある想いについては、久しぶりに味わっていたのかもしれない。

 こういう思い。
 こういう思いからするするっと逃げて来たのか気づかないふりをしてきたのか、その間はずいぶんとフラットなこころが保たれてきたことをあえて優先してきた。

 指先に流れているうすく透き通る血の色をみてなにかが滞りなく流れていたことへの驚きが自分だけではなく、相手にも流れていたことにきづくように。
 色づくものが眼に留まり始める。

 昔、鹿児島の動物園ではじめて見たフラミンゴの群れ。折れそうな足で立っている時は紅色だったのに飛んでゆくとき黒色の風切り羽のコントラストをまのあたりにして、幼かったわたしは、まだなにもしらなはずなのに、このよのものとは思えないっていう思いに近い思いで、なにもかもをあっち側へと注いでしまった気持ちを思い出す。

 からだとこころがなにもかもを、そのフラミンゴの群れの中に放ってしまったような。

 いろとかたちが、ひとを取り囲む。こころは動いているはずなのにからだは、ままならないことがあることをあの日もうすでに知っていたのかもしれない。

 いさぎよくこっちがゼロになることはほんとうはとてもここちよいこと。
 小さい時は、知らず知らずのうちにそいういうことを、体験してしまっているものなのかもしれない。
 それが、ずっと後、あぁこの感情はデジャヴュだなって思った時に、かつて栞を挟んでいた遠い場所へと導かれてゆく。
 いまの行動も想いもなにもかも、それは未知へのインデックスをこしらえている時間なのかもしれない。

       
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