その三七三

 

 

 






 





 
























 

眠りから さめてもふたり 闇をおちてゆく

 ずっと忘れていたトンネルを抜ける。
車が渋滞しているときの近道は、いつもとはちがうコースが定番だったけれど、その日のタクシーの運転手さんは、もうひとつの道を選んでくれた。

 にぎやかなイルミネーションを過ぎてすべるようにほのぐらいトンネルに入る。
 その場所は、ちいさな苗や種を買いにゆくときに使っていたずいぶんむかしによく通っていた場所だったことを、トンネルの入り口に近い場所で思い出す。

 電車に乗っていてもそうだけれど、トンネルにいっしゅん入ってゆくときの、すこしだけふあんでふたしかな空間に対して、からだがその空気にかすかに反応して緊張する感じは、すきなことなのかいやなことなのかわからなくなることがある。

 こころもとなかったはずなのに、出口が近づくとどこかで、がっかりするような物足りないような。
 もっとあの薄い暗闇がつづいてほしかったなって思っている自分もいて。
 こころの準備がないままに入ってみると、あきらかに他の道とはちがう、ざわざわした心がふとよぎる。

 これって、なんとなくアリスだなって思う。
 スティーヴン・ミルハウザーの「アリスは、落ちながら」という短編を、何日か前に読んでいたせいなのかもしれない。
 おなじみのルイス・キャロルの描いたアリスが、好きな訳者、柴田元幸さんのリズミカルな日本語で訳されていた。
 ひたすらおちてゆく時間を、無限に引き延ばされたかのように綴られていたその世界は、ことばがいきいきしていてうれしくなる。

 <いつから自分が落ちつづけているのか>わからないアリス。
<ラズベリージャム、と書いたラベルを貼った壷がある>
<それから、レモンクッキーの缶。蓋は深緑色で、中央に楕円形の枠があり、アルバート公の色つきの肖像が収まっている>
 落ちながらも、こんなに描写が繊細なのは<アリスはひどくゆっくりと落ちているので、これらの細部を一つひとつ丹念に眺めることができる。>からだった。

 ほんのつかのま車が入って行った、現実のトンネルもそのまま垂直にすれば、アリスが体験したような<縦穴の薄暗い壁>となってゆくように感じる。
 落ちてゆく快感と懐疑と。
 明かりの差す地上がほんとうで、おちてゆくじぶんがゆめなのかわからなくなっているアリス。

 どっちの世界がゆめなのかって考えだしたらきりのない
らせんのなかに、紛れ込んだような気分になる。
 短編の中では、ちゃんと現実がアリスに戻ってくるけれど読み終えた読者は、ゆめとうつつの境界線がゆらいでいるのを感じる。

 現実が、っていま綴ってみたけれど、それはほんとうの現実ではないし、小説の中の架空の設定なのに、あたかも現実のように、引き受けているじぶんがいることに気づいて小説を読むという行為のふしぎさに、また煙にまかれたような気分になったまま、あの日のトンネルを思い出す。

 もしかしたら、あの日だけの限られた時間にしか存在しなかった逢う魔が時のトンネルだと想定してみたくなったのは、<アリスは、落ちながら>のことばのわなにはまったせいで、その今という時間がゆめなのかうつつなのかわからなくなっていた。

       
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