その三七六

 

 

 





 





 

























 

流されて 刻まれてゆく あとかたのことば

 鱒の釣れる川が合流するモンタナ州のミズーラを舞台に描かれた映画を見る。
 幼い頃から、川や山にふれた生活をしていたことはないのに、その暮らしの中でなにかあるごとにその川で兄弟や親子が釣りをするシーンが眼の奥にやきついて、届かない憧れのようなものを抱いていた。

 川という場所なのか釣りという行為のなかかよくわからないけれど、兄と弟とか父と息子とかそういう彼らの濃い血をよりつよく結びつけるなにかが、潜んでいるようにみえる。

 そんなふうに見えて来たのはその映画のテーマがそこにあったからかもしれない、立ち入れないバリアを感じるけれど、はじめてつよくすなおに、いいなぁって思った。

 母と娘とちがって、父と息子はなんか、わたしたちとは
違う場所に垣根が、つくられている気がする。
 その垣根の内側にははたぶん、一生をかけて彼らが培った歳月が隠されているけれど、ことばのない世界が内包されているに違いないって、映画の中の親子兄弟達をみていたら、そんなことを想像してしまう。

 彼らが進む道は、たがいにそれぞれの方向を向いていて、価値観も決してわかりあえないところにあって、仲の良さとはほど遠いのに、ラストシーンあたりで、彼らのなかのわだかまりや、無関心がむくむくと輪郭を持ち始める。
 それは同時に見ているひとりの観客わたしの胸にも刺さってくる。

<やがてすべてはひとつに溶けあい、その中を川が流れる>
という原題のタイトルの意味が、ふいにあらわれたとき、
一種のカタルシスを憶えた。

<洪水期に地球に刻まれた川は、時の初めから岩を洗って
流れ、岩は太古から雨に濡れてきた。
岩の下には言葉が・・・。
その言葉のいくつかは岩のものだ>

 兄の声が呟くこのナレーションを聞いた時、ここからは
見えないぐらいとても遠くに放たれた糸が、大きくらせんをたわませているのを感じた。
 なにかをつかまえるための釣り糸ではなくて、じぶんの
思考の先をなるべく遠くに放つことだけが、大事なのだと
じぶんに言い聞かせているような、川と対峙する姿がすうっと浮かんだ。

 映画を見終わって、やっぱり
<その言葉のいくつかは岩のものだ>というところが、つよく残っている。
 ことばはひとだけのものでないことを、こういう大自然の中にほうりだされた人間達の営みをみていると気づかされる。
 自然が携えている言葉のようなものに、思いがけず直面すると、時折、文字にならないことば、できないことばのほうにばかり思いを馳せてみたくなる。

       
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