その四四五

 

 














 
















































 

あめつちに 種がこぼれる 祈りのように

 むかし、そういう遊びをしたなって思い出す。
 まっしろい紙に、すきなことばを鉛筆で綴る。
 いちばんめは主語で、次は、述語でというふうに。
 いちばんめの人が書いた言葉の紙は、折ったまま、みえないようにして、つぎのひとへと渡してゆく。
前の人がなにを書いたかしらないままに、すべてのことばをみんなが書き終えた時に、いっせいにその紙を開く。

 はむかしむかしの大人たちが、はじめたらしい、その遊びにはなぜか名前がついていた。
<カターヴル・エクスキ。妙なる屍>というのだと、写真家の畠山直哉さんのエッセイで知った。

<たったひとつわかっているのは、みんなでこの紙をひろげたとき、そこに文のかたちをしている何かがある、ということだ>という。でもだれが<完成させられたかをいうことはできない>と。
 畠山さんの文章がすきだなって思っていたら、5月20日の<折々のことば>で再び彼のはじめての言葉と巡り会えた。

<いっそ「記録」は過去ではなく、未来に属していると考えたらどうだろう>という言葉に続いて<そう考えなければシャッターを切る指先に、いつも希望が込められてしまうことの理由がわからない>と綴られている。

 紹介されている鷲田清一さんの言葉には<写真だけでは
ない>いろいろなひとたちの仕種やふるまいの中にも、<きっと密やかな祈りが込められている。>と閉じられていた。

 読み終えたとき、ふいに腑に落ちた。すとんと心地よく
どこまでも下降してゆく感じに包まれた。
 写真のシャッターを押す指にこめられた希望を鑑賞する
鷲田清一さんの言葉のなかにも、ひとしずくの祈りのようなものが込められていて。
 胸の前で手を合わせる祈りだけでなく、日常のあらゆる
場所に祈りのはじまりの種がこぼれおちているものなのかもしれない。

いろいろな出来事にほんろうされた2015年、そんな言葉を知ったことが、ささやかにぬくもりを感じる救いへと
つながっていったような気がします。
 今年もうたたね日記にお付き合いくださいまして、ほんとうにありがとうございました。
 残りすくない今年の日々がみなさまにとっておだやかで
あたたかくありますように。
 どうぞ来年もよろしくお願い申し上げます。

       
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