その五四五

 

 






 






 
















 

木という字 あまた並べた 心地になって

なんだか、すべて合点がいくなんてことは、ほんとうは、つまらないことなのかもしれない。
文章でもひとでもどこかに矛盾をかかえているものに触れた時、え? わぁってなって惹かれてしまう。

心地いい言葉ばかり使う人も、もちろんきらいじゃないけれど、ときにはときどき触れられたくないことを、ずばっと言ってくれる人は、ちょっとすきって感じになったりする。いますこしだけ、嘘がまぶされたかな?

つまり、たぶん身体をいじめて筋肉に効いてるなってぐらいがちょっとがんばってるみたいでうれしいという錯覚にも似ているってことを言いたかったのかもしれない。

ここに文章を書く時いつもなぜかむかしの『花椿』をめくりながら書きたくなることが多いのだけれど、数分前にみていたのは5年前の7月号で。表紙もグラビアもなんだか縞々が張り巡らされている。
冬に縞々をみると、季節はもう過ぎてしまったんだなって、あきらかに過去の夏を見ている感じがするし。今年の夏だってあんなにさんざんだったのにもう輪郭さえ忘れてしまいそうに遠い。
冬はどうして縞々じゃおかしいんだろうと思いつつ。

「無存在の電話の無存在のベルが鳴り無存在の私が受話器を取り上げると無存在の声が無存在の報告を私に伝えた」
9月8日に書き留めてあった言葉。どうしてむかしの小説『富士』の一節に惹かれたのか。たぶんきっと、いまこうして写している時よりもその日付の日の方が断然なにかをここに感じていたんだと思う。
こうやって、思いは移ろうのだと知ってその文章をもういちど眺める。戦時下が舞台であると考えると、とてつもない暗い闇だけがぽっかりと浮かんでいるようにも思える。なのにそこにゆきかう言葉はどれも、自由なのだ。自意識が勝っている人達の言葉が記されているのだけれど、どこかこころだけは自由であることに、もしかしたら仰ぎたくなるような潔よさを感じ取ったのかもしれない。
9月はなにかにがんじがらめになっていた自分がいたことが、まるでだれか他人のエピソードのように響いてきて妙に新鮮な気分になっていた。

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