よく似てる 後ろ姿の 尻尾 焦がれて
ちいさい子供とお父さんが、なにかをなしとげて
ハイタッチ。たどたどしくあがってる手のひらに
おとうさんがじぶんの手のひらを近づけてハイタッチ。
赤ちゃんも、なにかよくわからないけれどおとうさんと、
体の一部がふれた温かさで笑ってる。
ハイタッチってもしかしたら、したことないかもって。
記憶を辿る。
きっとない。って思った側から林間学校でサバイバル
したときにゴール地点で待ってくれていた大学生の
お兄さんがハイタッチしてくれたかもしれないって
思い出す。
ちょっと前に観た映画、『ボブという名の猫』では、
かわいい茶トラ猫のおかげでお客さんがたくさん
聞きにくれたことを祝って、通りの隅でその飼い主で
あるひとりのホームレスのストリートミュージシャンと、
ボブ君がハイタッチしているシーンをみた。
実話らしいこの映画は後日談で読んだ記事では、ボブ君役は
ほんとうに一緒に暮らしているボブ君で、ハイタッチが特技
らしいことが触れてあった。
取材者の方にもハイタッチしてくれたみたいで。
いつもできるってところが、すごい。
猫の肉球のつるっとしたところとまわりの毛のざらっと
したあの感触を思い出す。
そんなことをタイピングしていたら、ふとぱらぱらと、
新聞の切り抜きが、今年の手帳の6月のページから落ちて
きた。
<載せられた手の感触を記憶しようと両肩に意識を集中する。
でも秋の乾いた空気が首筋を撫でて、そこにあった微熱のよ
うなものを感じる前に奪い去って行ってしまった>
これは沖縄生まれのアーティストミヤギフトシさんの小説の
1シーン。読んでいるだけで手が置かれていた肩のあたりに
体温を感じるし、このまっすぐな思い、熱は記憶を通して、
今存在していたるのだと気づかせてくれる。
手のひらと手のひらが一瞬触れる。
あの瞬間は、じぶんとはちがう相手の熱を感じるとても、
シンプルな唯一の方法なのかもしれない。
それは決してずっとではないし、永遠に続くものでもない
けれど。永遠じゃないからそれはだれかのなかで永遠に、
なってゆくのだと。
赤ちゃんもボブ君もあのままの時間はほんとうにせつない
ぐらいの速さですぎてゆくのだから。
振り返るとまぎれもなく<微熱な日々でした>って、
そんな時間が誰にもあったしわたしにもあったのかも
しれないなって。
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