その六八一

 

 





 






 





 

言わなくても いいことだけを 拾い集めて

体育館の床は、体育館シューズの青い底が
こすれる度に、ちいさなウサギみたいな
鳴き声をあげる。

どうでもいいことなのに、ふいに思い出す。

ふたり一組のゲームのようなお遊びのような。
ひとりのひとは前を向いていて、もうひとりの
人は、その背中を支えるために手で受け止める
ためにそこにいる。

前のひとが、静かにからだを後ろに倒すと、
後ろのひとはその背中をしっかりと受け止める。

みえなくてもお互いを信じられるかみたいなこと
だと思うのだけれど。

そんなことをむかし体育の時間にやった。
誰かを受け止めるときは、平気なのに。
受け止められる側になると、とたんに躊躇して
しまう。

はじめて会うひとではなくて、もう7年間ぐらいは
ともに過ごしているクラスメイトであっても、
なかなか後ろに倒れることができないことが
あった。

後ろで待っている相方の珠穂ちゃんは
「ひどい、わたし信頼されてないやん」
って笑っていたけれど。

そうじゃないよって言いながらも、なかなか、
身体で応えることができなかったのだ。

だれが発明したんだろう、あの仕組み。
いじわるなゲームだ。

人の心をえぐってくるみたいなこと、思春期に
やらせないでほしい。

あの時間がやってくる度に、誰かをわけもなく傷
つけているみたいで、ゆううつだった。

お互い信じられるかを測られているって、あまり
気持のいいものじゃない。

信じるを測られているって、疑われているって
ことだから。

そんな意味どこにもなかったかもしれないけれど。

「世界がわかってきたような気になるのは、
わからないものを切り捨てていくからである」

という言葉に出会った。

かつて17歳だった頃のじぶんの背中を、誰かの
温かい手のひらがしっかりと受け止めている
感触が蘇る。

信じて倒れてみたあの瞬間。

信じるって力技だと思ったそのせつなを
思い出しながら。

あの日ためらっていたものの輪郭が、その言葉の
あわいに、ぼんやりとうかんでいるような気が
した。

信じてもらえてるってそれだけで、じぶんに
とっての誰かからの贈り物のように思える。

そして信じてるって思える誰かといっしょに
いることは、それだけでそれだけで、
満ち足りた時間のたまものなのだ。

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