その六八五

 

 






 





 




 

ひらがなの きもちに出会う きもちほころぶ

昔若かった頃。
気持ちって言う言葉は慎重に
使わなければいけない言葉の
ひとつだった気がする。

気持とか想いは重くなるから
相手にとって重たいとウザいと
思われるのだから、やたら
気持ちとか言わないようにって
クラスのみんなも暗黙の了解で
きもちという言葉を使わなかった

まごころとかもそうで。
真心がこもってとかって感想を
言いそうになるとそれも抑えた。

そんなふうにしてわたしたちは
気持を遠ざけてきた。

そうやって気持ちを遠ざけて
いるうちについつい自分の気持ち
とか
誰かの気持ちのことを
慮りながらみたいことは
ないがしろになっていったのだ。

だから、学校で嫌なことがあったとき
じぶんの気持ちを押し殺すようになって
誰にも言わなくなっていった。

みんなそうだと思っていたし
そうじゃなかったかもしれないけれど。
すくなくともそうだと思いたかった。
気持ちがわたしのなかに
嫌な輪郭でもってあることも
あって戸惑った。

そして、ある日。
わたしは違うアングルでその言葉を
聞いた。

働き始めた頃、デザイナーさんが
ページのレイアウトについて
後輩のデザイナーさんと打ち合わせ
していた。

「その商品ね、もうすこしきもち
右に寄せられないかな? そうすれば
すわりがいいっていうか、決まるよね」

みたいな内容だった。

その時彼が言っていた「きもち」に
反応した。

きもち、少なめにとか
きもち、下げてとかというときのそれは
とても軽やかですきだ。

気持じゃない方のきもちだ。

そのデザイナーさん仕事をこなしながら、
注文やダメ出しをそんなことばで
くるっとくるんで伝える感じに
憧れたことを思い出した。

距離感もほんとうはわからないのに
きもち詰めてとかって言われたら
それぞれが「きもち」詰めたりする。

にんげんはそうやって、定規で測る
こととは別に日々の感覚の微妙な
ニュアンスで生きたり悩んだりしている
生き物なのかもしれない。

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