その六七〇

 

 





 






 





 

倒れても たおれても たんぽぽ開く

余白がこわいなんて今思えばどうかしてる。
余白がこわいことはなかなかなおらなくて。

自分の気持ちをどうのこうのと書くことにも
飽き飽きしていた。

そんなある日。

わたしはじぶんじゃないだれかの言葉で
日記帳を埋めようと考えた。

そしてわたしの日記の白いページは誰かの
言葉ですこしずつ埋まるようになっていた。

時々わたしはことばのことどれだけ信じて
いるのかな?って思う時がある。

小さい頃に、花がきれいだとなかなか
言えなかった。

きれいだね。
かなしいね。
うれしいね。
いやだったな。

どれもなかなか言えなくて。

でもそれを言うと、先生もおともだちも
喜ぶことを知った。

どれもその頃わたしがしっくりと
こなかった言葉ばかりだった。

実感が伴っていなかったのだ。

なかなか実感できないことは
声にできなかったので。
ちょっと黙ってしまって。
きれいだよねって促されて
きれい。って小声で言うような子供だった。

学校の帰り道前を歩く同じ小学生が
踏んでしまったたんぽぽを見て、
あっ!って思った。

踏まれて痛かっただろうなって。
なんか体感した気持ちになった。

でも。
そんな私の気持ちとは裏腹に。
ぼちぼちとその人の後ろを歩いていた
わたしの眼の前でそのたんぽぽは
立ち上がっていた。

あ、すごいって思った。

踏まれても立ち上がれるんだとランドセルの
わたしはちょっとびっくりした。

そして踏まれても立ち上がりたいと
思った。

ほんとうは強くなりたかったのだ。
そしてそれを詩にした。
でもうまく言葉にできなくて。

いつか詩が書けるようになりたいなって
思ったのがわたしと言葉のはじめての
出会いかもしれない。
なにか手触りのようなものが欲しい。

それはきっといつもあたらしい世界が
どこかにあると信じたいせいなの
かもしれない。

TOP