その六九〇

 

 






 








 

なにもかも 物語にして 生きて行けたら

一日を終える時、まだ何か大事なことを
し忘れていた気がする。

それはとても大事なことなのに、すこしも
手をつけなかったことのように思えて来て、
その大事なことがなんであったかを、手繰
ろうとするのに、なにかを忘れているという
感覚だけがふくらんでいて、うまく思い出せ
ない。

このぼんやりとした感情に包まれながら、
坂道を上りながら、ふと目にした道路脇に
名前の知らない花を見ていた。

名前を知らないのは私だけかもしれない。

SNSの中でも日常のなかの「物語」という
キーワードが浮かんでくる。

誰が誰に裏切られたられたのかよくわから
ないのにただただ怒っている人と、ひたすら
同情するひとにわかれてゆく彼らの物語。

そしてみているひとたちの物語も一方で
ある。

わたしはかってに信じた誰かの物語に、ふら
れた気がしているのかもしれない。

物語がない時代にひとびとが、生きていた
ことは多分ないかもしれないけれど。

いまの<物語>に寄せられる想いのような
ものは、ただただ何か目の前にあるものを
根拠なく信じたい方向へと向かっている気も
するなって思いながら。

いつかノートに記していた寺山修司の言葉が
気になって、ごそごそと探しに行く。

寺山修司のことを考えると、輪郭があれほど
はっきりしているはずなのに、捉えてしまった
あとは、なにも掴めていないような気がして、
不安になってしまうんだろうって思う。

そんな彼が死の37日前に語った演劇の可能性に
ついての言葉に再会した。

<物語は中断してしまわないと気が済まない。
物語を完結してしまうと観客の中には何も余白が
残されない。物語は半分つくって、後の半分を観客が
保管してひとつの世界になってゆくこと>

 

おそれおおくも、そんなことばに引き寄せられ
てゆく。

『書を捨てよ、町へ出よう』にはじめて触れた時、
残された余白になかば、溺れそうになりながら、
すがるもののなさに、呆然としてしまったあの感
覚はいまも、まだずっと続いていることにうその
ようにおどろきつつ。

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