その六九四

 

 






 







 





 

おとずれは 音がずれてゆく 雲から雲へ

空がとつぜん、きれいに見える時がある。
空はいつもと変わらないのに。

ただ、雲の形がちがってそのレイアウトが
ちがうだけなのに。

空に心はないのに。
そこに心をかってに託してみたくなる。

いつか聞いたことのある坂本龍一さんの
言葉を日記の中から探していた。

「みんながざわざわって客席がざわつき
はじめて曲が始まると、とても静かに
なって。

ひたひたとしーんとして。

曲が終わって最後の音符を引き終えて
余韻がほんとうのおしまいを迎える頃に、
彼らはまるでサッカーで自国チームが
ゴールを決めたかのような、
はじけたもりあがりをみせるんですよ」。

柔らかなきれいな鼻濁音の声で
つぶやくようにインタビューでそう話して
いた坂本龍一さん。

『bibo no aozora』 を聴いていた。

イントロが始まると、わたしのこころも
ざわざわしてくる。

音の階段をすこしずつ上ってゆく感じが
じわじわとしてくる。

イタリアの人たちの耳やからだにどんな作用を
もたらしているのか計りかねるけれど、
でも 、彼らがことばのない音のつらなりに
感じているかけらほどのなにかを共に
受け止めているようなそんな気持ちに
一瞬なった。

記しつつそれを感じているのは今の気持ちで
ほんとうに音に耳がふれたときには、
そんな余裕は
なかったのかもしれない。

おとずれという言葉。

むこうからなにかが運ばれてくる。
音づれ。

音がつれてくる。

だれかのゆびで震わせたり響かせたり。
あてもないけれど、ちゃんとおしまいが
くる予感もはらませながら。

余韻が耳におとずれるとき。

余韻のいちばんさいごの終止符を打つ時の
しずかな音まで聴いてしまって。

あたりのしずけさは、さっきまで聴いていた
曲が連れてきたものなのだと、しみしみ
する。

きもちが順々に折りたたまれてゆく
感じってじぶんでもよくわからない
けれど。

たぶん何かの訪れを待っていたのだなって
ことだけは、たしかなことのようだった。
そう、空がきれいにみえると近頃はちょっと
泣きたくなる。

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