その六九八

 

 




 






 



調


 

ほろほろと 誰かが鳴いて 風にまぎれて

すきな音楽はふいにどこからか理由もなく
訪れてくれるとうれしい。
調律師の尾斗はいつもそう思う。

部屋の小窓からそっと滑り込んでくる
ピアノの調べがとても気に入っている。

昼下がりになるといのちの限り泣き続ける
蝉の泣き声にまじって縫うように彼の部屋に
届く。

彼女のピアノの調律をはじめて一年になる。

指の跡が鍵盤に刻印されている、
うっすらと。

尾斗はそっとそこに指を重ねる。

どんなにやさしく白い鍵盤に指をおいても
強く叩くようにしてみせてもそこから
放たれた音はたちまち風まかせに儚く
消えてしまう。

その時ピアノが鳴いた。

いつもと違う音色で。

ほろろほろろって鳴いた。

ラの音が少し歪んでいる。

そこを押すと

しゅりしゅりと泣いた。

後にそれが彼女の名前だと知った。
調律を終わるとじぶんの身体の何処かに
たたみこまれた音をひとつずつ探す
ようにして、記憶のなかの調べで
尾斗はおさまりをつける。

ふたの閉じられたピアノは少しの間
死んだふりをする。

ピアノはあの指に焦がれるように
眠ったまま密かに佇みながら待っている。

尾斗は踵を返していた。

たぶん鍵盤に恋している。

※最近、すこし創作をしているので
みじかいお話しを書いてみました。
エッセイとは違う色になりますが
楽しんで頂けたら幸いです。

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